カテゴリ
以前の記事
2013年 06月 2013年 05月 2011年 12月 2011年 06月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 links
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
もしかしたら、全ての完全なる小説は映像化する必要は無いのかも知れません。
公式サイト 梨木香歩の大傑作中編の映画化作品である本作、原作をこよなく愛する私としましては、上映中を通して憤りに近いものを感じて鑑賞しておりました。 とにかくこの原作は、その台詞、シチュエーション、メッセージ、全てにおいて、簡潔でありながらも、完璧で繊細なバランスの上に成り立っている「完全なる」作品です。 その作品の映像化のニュースに際して、一抹の不安を抱かずにはおれなかった原作ファンは、恐らく私だけではないでしょう。 至ってシンプルなストーリーと、非常にイマジネイティブで磨き上げられた描写で綴られた小説であるが故に、それを果たして映像という(受け手からすると)受動的なメディアに置き換える必要があるのか?と。 そして、その不安が正に的中したのです。 本原作を構成する重要な要素が、ほんの幾つかでも映像化により実現されていたのであれば、私とてここまでの失望を覚えずにすんだかも知れません。しかし残念な事に、どれ一つとしてそれらが成功しているとは言えないのです。 例えばまず、その自然描写。重箱の隅をつつく様な事ではありますが、あの魔女の住む森は、例えて言うなら、マスターキートンの中の1エピソード、「遙かなるサマープディング」で描かれる様な森であって欲しかったと思うのです。遥か遠い異国の地に於いて、遠いコーンウォールの森を思い出す為に、キートンの祖母が日本の里山から林を抜けたささやかな場所に築いた「秘密の故郷」。できれば、その様な場所であって欲しかったのです。あの様にありきたりの雑木林であれば、東京の都心に住む人なら分かりにくい感覚かも知れませんが、普通の感覚で言うならば、映画の中で描かれる様に女の子が、半パン・半袖Tシャツでノコノコ赴く事は出来ない筈です。広葉樹林の雑木林と言うのは、様々な昆虫がいたり、あちこちにクモの巣が張り巡らされていたりしていて、決して映画のシーンの様にクリーンで心地よい場所だとは言い切れません。梨木香歩の原作はその辺りを巧妙に排除して、まるでその森が「リバー・ランズ・スルー・イット」で描かれた様な、夢の様に美しい針葉樹林帯の様な(もしくはそれに接する白樺やブナの林の様な)印象を読者に与える事で、そのイマジネーションの幅をより広げる事に成功していると言えます。 更に、本原作と「りかさん」等、一部の原作を除いて、著者の作品に色濃い「ロハス」的、或いは「スノッビー」な香りを消し去るほどの力が、映像から感じられない事です。この為、映画の中で描かれるのは、単に「都会生活」から逃れただけの少女のお話となっており、そこに感じるのは「あぁ、田舎暮らしってやっぱりいいんだ」程度のオシャレな印象だけとなってしまっているのです。そこから立ち上ってくるのは、著者が持つ資質の中で唯一、鼻につく「現実離れ」した、「貴族的な」感性の香りです。 そして最後に、これこそが最も重要な事なのですが、映画は明らかに原作のメッセージの本質を取り違えた物語となってしまっている事です。この物語は「魔女(である祖母)が死ぬから悲しい」話なのではなく、逆説的ではありますが「魔女が死なないから素晴らしい」話なのです。であるから、間違っても物語のピークを、彼女が死んで、その子供(即ち、主人公の少女の母親)が嗚咽するシーンに持って来てはいけないのです。それではただ単に、人が良くて色んな事を教えてくれた優しい祖母が死んじゃった話では無いですか! 違うのです。この物語の本質は、「死んだらどうなるのか?」と思春期特有の不安で虚無的な思いを持つ少女が、その一つの答えを祖母の死から見いだす話なのです。これについては、賛否はありましょうが、単に祖母の死を通じてリンカーネーション(魔女=シャーリー・マクレーンの娘である事から、必然的にそのイメージを観る者に与えているのも、やや不愉快であります)を説くのではなく、もっと大きな「(一部ではミームと名付けられている)受け継がれて行くもの」に主人公が自発的に思い至る話でなければいけない筈です。その受け継がれて行くものが、魔女の持つ魔法をメタファーとした「もの」であり、魔女が魔女でなければならない必然性なのです。ここの部分が現れるのが、物語中盤の魔女=祖母と少女の死生観問答であり、それを伏線とした(恐ろしく心に響く)あのシーンなのです。それがこの物語の本質である事は疑うべくもありません。そんなとてつもなく強いメッセージを持った小説であるが故に、上記の様な著者の資質が欠点として表に出てくる事がないのです。 であるにもかかわらず、このシーンの、あの描き方と言ったら。何も、ことさらに長回し等で引っ張った上であざとく見せろ、と言っている訳ではありません。しかし、こここそが映像メディアに携わる者としての、或いは演出を職業とする者の、また或いは素晴らしい原作を元にリスペクトを持って脚色を行う者としての腕の見せ場ではないでしょうか。 私もアンフェアなレビューを行いたくは無いので、私自身が原作を読んで持っている印象が記憶違いであって、映画の描き方の方が正しい可能性も考慮し、映画鑑賞後家に帰って、相当以前に読んだ原作を、もう一度読み直してみました。確かに台詞や、物語の流れなど、大きな部分は間違いなくほぼ原作通りであったと言っても良いでしょう。それでは、何故この様な映画になってしまったのか。恐らくは、映画製作者の原作に対する愛が全く欠けていたのと、映画に携わる者としての資質が全く欠けているかのどちらか、また或いはそのどちらも、であったのではないでしょうか。 まだ本作をご覧になっておらず、原作も読んでおられない方がおられるとすれば、是非とも映画を観る前に原作のその素晴らしさに触れてみて下さい。これほど完成された、幅広い年齢層に訴える簡潔な小説はそれほど無いと言える傑作です。しかしながら、映画は・・・。私のこのレビューをお読みになり、どこか感ずるものがあれば、もしかしたらご覧にならない方が賢明かも知れません。 私は本当に、怒っているのです。 「西の魔女が死んだ」の映画詳細、映画館情報はこちら >> 西の魔女が死んだ@映画生活
by unit7of9
| 2008-06-27 17:29
| 映画
|
ファン申請 |
||