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SFの顔をした、体制告発小説。
中学時代に初読して以来の再読となりましたが、亀の甲より年の功とは良く言ったもので、改めて当時分かりづらかった科学用語や社会情勢などをふまえて読んでみると、なるほどそうだったのか、と目からウロコの思いでした。 惑星ソラリスに浮かぶ宇宙ステーションを舞台にしたこの小説、SF的なモチーフは散りばめられてはいますが、物語の中心はソラリスに投影される自分自身との葛藤と言った、息苦しささえ覚える密室感あふれる作品です。 当時の知見を基にした科学的用語がそこここに顔を出し、一見モダンなSFと捉える事も出来そうですが、例えば、このソラリスなる存在を文脈から削除しても、登場人物の心理描写だけで充分作品として成り立つような気がします。 何故か。 著者のレムはポーランド生まれの作家です。本作品が発表されたのは1961年。東欧の歴史をひもとくと、1955年にワルシャワ条約機構が結成され、1958年にフルシチョフがスターリン批判を経て首相の座に就いています。時を前後して東欧各地で反ソ連の暴動や内乱が数多く起こり、著者の国ポーランドでも、1956年にポズナニで暴動が起こりました。しかし、恐らく作品が発刊された1961年の少し前には、ほぼソ連を中心とした東欧諸国の体制は固まり、いよいよ本格的な東西冷戦時代を迎えようと言う時期だったと推察されます。 つまりは、それまで曲がりなりにも流動的であったヨーロッパにおける各国の体制が、西側とのある種の均衡状態の上で固定されつつあった、と言う事です。かたや西側でもマッカーシズムの嵐が吹き抜けたアメリカを初め、各国で反体制派に対する不寛容の時代を迎えていました。 そんなさなかに東側のポーランドにおいて出版された「こういう小説」が、純粋な娯楽や、或いは哲学的な形而上の興味においてのみ書かれたと信じるには、もはや私たちは純真ではありません。 ソラリスとは何か。自らを映す鏡であると同時に、その心の奥深くに沈めた最も醜い部分をさらけ出すもの。それは、著者がおかれた、或いは心ならずも自らの手で招いてしまった当時の東側の体制そのものです。 作中、何度も得体の知れない視線を感じる主人公ケルビンは著者であり、全ての国民であったはずです。そして十重二十重に綿密にめぐらせた科学用語や心理学用語と言った「科学的な社会」におけるヴェールの向こうに透けて見えるのは、切実なまでの告発です。 著者は決して神を語りません。しかし、そうした態度から抑えても抑えても自然にその姿は立ち上がって見えます。この辺りは、カール・セーガンが傑作(!)「コンタクト」で描いたあのラストシーンさえ彷彿とさせます(私はこのシーンをあえて削除した映画版「コンタクト」は、それまでの出来が如何に優れていたとしても、到底許容する事が出来ません。なにゆえこのシーンがそれ程重要なのか?それは非科学的なものや、宗教を極端に嫌った『科学者』カール・セーガンが、それでもなお『大いなるもの』に対しての希求を表現したシーンである筈なのです。地球規模のちっぽけな、結局争いの元になるだけの宗教における『神』等ではない、もっと大きな希望を示唆したシーンだからです。それは決して物質的な存在であったり、誰かによって現出させられるつまらないものではありません。全ての人間に、生物に、非生物に分け隔て無く降り注ぐ、厳密な法則です。)。レムの「神」は厳密な意味では、恐らくこれと異なるでしょう。「神」を語れない世界で語るレムの「神」と、「神」が存在しすぎる世界でそうしたものを語るセーガンでは、その中身が異なるのは当然と言えます。それでもしかし、私がここに両者の共通点を見いだすのは、両者とも切実なまでに「希望」を見いだそうとしていた、その態度なのです。 アーサーC.クラークの「2001年:宇宙の旅」等と比せられる本作品。かの作品が、あくまで科学的な知見を元に、モノリスに仮託したパンスペルミア説を通じて「神」なるものを描こうとしたのともまた意味合いが異なるようにも思います。 安穏な社会において「魔王」や「リヴァイアサン」等という生ぬるい「存在」におびえる私たちより、はるかに切実な、体制の中にいる人間の告発を含んだ社会的な小説です。 そして、「自由の国」のソダーバーグは本質を語らず愛を語り、タルコフスキーは著者と同じ立場であるが故に本質を可能な限り美しく描いたのです。 最後に、手法は違えどもレムやセーガン同様、「社会科学」の限界を身をもって経験し、それを越えたところで世界の真理を語ろうとしておられた故今村仁司氏のご冥福をお祈りします。
by unit7of9
| 2007-05-09 15:59
| 本
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